気候変動への対応が世界的な経営課題となるなか、温室効果ガスの排出に価格をつける「カーボンプライシング」と、その排出枠を取引する「排出量取引制度(ETS)」が、各国で導入・拡大しています。ベトナムも、国際的な脱炭素の約束に沿って、排出量取引制度の構築とカーボンクレジット市場の形成に向けて動き出しています。同時に、企業活動を環境・社会・ガバナンスの観点から評価するESGの考え方が、投資や取引の前提として浸透しつつあります。本稿では、ベトナムにおけるカーボンクレジット市場の形成、ESG投資の高まり、森林・再生可能エネルギー由来クレジットの可能性を整理し、日本企業がクレジットの調達・ESG連携・投資を検討する際の論点を、新たに立ち上がるこの市場ならではの視点から解説します。

カーボンプライシングとは ― 排出に価格をつける

カーボンプライシングとは、温室効果ガスの排出に経済的なコストを課すことで、排出削減を促す政策手法です。代表的な仕組みに、排出量に応じて課税する「炭素税」と、排出枠(キャップ)を設定し、その枠を企業間で売買する「排出量取引制度(キャップ・アンド・トレード)」があります。排出量取引では、削減が進んだ企業が余った枠を売り、削減が難しい企業が枠を買うことで、社会全体として効率的に排出を減らすことを目指します。この仕組みにより、排出に「価格」がつき、企業は削減の経済的な動機を持つようになります。

カーボンクレジットは、植林や再生可能エネルギーの導入など、排出を削減・吸収する活動によって生み出される「削減量の証明」です。企業は、自らの排出を相殺(オフセット)するために、こうしたクレジットを購入することができます。世界では、規制に基づく市場(コンプライアンス市場)と、企業が自主的に参加する市場(ボランタリー市場)の両方でクレジットが取引されています。ベトナムは、こうしたカーボンプライシングとクレジット市場の仕組みを段階的に導入しようとしており、その制度設計と市場形成が、これからの大きな論点となっています。

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ベトナムの動向 ― 制度の構築が始まる

ベトナムは、国際的な気候変動への取り組みのなかで、温室効果ガスの排出削減目標を掲げ、その達成手段として排出量取引制度(ETS)の構築を進めようとしています。制度の導入は段階的に行われる見込みで、まずは排出量の多い産業を対象に、排出枠の設定とモニタリング・報告・検証(MRV)の仕組みを整え、やがて取引市場へと発展させていく道筋が描かれています。制度の立ち上げ初期は、対象範囲や排出枠の配分、価格の形成といった設計が固まっていく過渡期となり、企業はその動向を注視する必要があります。

制度が本格化すれば、ベトナムで事業を行う企業、とりわけ排出量の多い製造業は、自らの排出量を把握・管理し、必要に応じてクレジットを調達する対応を迫られます。これは、企業にとって新たなコスト要因であると同時に、削減努力を価値に変える機会でもあります。排出削減やクレジット創出に関わる技術・サービスへの需要も、制度の進展とともに高まると見込まれます。制度の黎明期にあるからこそ、早期に対応の準備を進めることが、規制対応と事業機会の両面で重要になります。

カーボン市場の発展経路のイメージ(段階別・概念図)。

▲ カーボン市場の発展経路のイメージ(段階別・概念図)。

クレジットの源泉 ― 森林・再エネ・農業

ベトナムは、カーボンクレジットを生み出す源泉となる自然資本と再生可能エネルギーのポテンシャルを豊富に持っています。第一に、森林です。ベトナムは広大な森林を有し、その保全・植林による二酸化炭素の吸収は、森林由来クレジット(REDD+などの枠組み)の源泉となり得ます。森林保全とクレジット創出を結びつけることで、環境保全と経済的価値の両立が図られます。第二に、再生可能エネルギーです。太陽光・風力・バイオマスといった再生可能エネルギーの導入による排出削減は、クレジットの創出につながります。

第三に、農業です。ベトナムは農業大国であり、稲作などの農業分野における排出削減(水管理や栽培方法の改善)も、クレジットの源泉となり得ます。実際、農業分野での排出削減を通じたクレジット創出の取り組みが、国際的な支援のもとで始まりつつあります。こうした多様なクレジットの源泉は、ベトナムをカーボンクレジットの供給国として位置づける可能性を持ちます。一方で、クレジットの品質(削減効果が確実で、二重計上がなく、追加性があること)を担保する仕組みの整備が、市場の信頼性を支えるうえで不可欠です。質の高いクレジットを創出・認証する体制づくりが、この市場の発展の前提となります。

動物薬を扱う貿易企業の物流倉庫イメージ

ESG投資の高まり ― 経営の前提条件へ

カーボンクレジットと並んで重要なのが、ESG(環境・社会・ガバナンス)の観点から企業を評価する潮流です。グローバルな投資家・取引先は、企業の財務情報だけでなく、環境への配慮、労働者や地域社会への責任、健全なガバナンスといった非財務の要素を重視するようになっています。ベトワムで事業を行う企業、とりわけ輸出企業や外資との取引を持つ企業は、こうしたESGの要請に応えることが、資金調達や取引維持の前提条件となりつつあります。サプライチェーン全体での脱炭素・人権配慮の要請は、ベトナムの製造業にも及んでいます。

ESGへの対応は、もはや「余裕があれば取り組む」課題ではなく、競争力を左右する経営の中核テーマになっています。脱炭素の取り組み、再生可能エネルギーの調達、サプライチェーンの管理、労働環境の整備、そして情報開示の充実は、ベトナム企業がグローバルな市場で評価されるための必須条件となりつつあります。この潮流は、ESG関連のコンサルティング、認証、データ管理、再生可能エネルギー調達支援といったサービスへの需要を生み出します。ESGは、規制対応であると同時に、それに応えるためのソリューション市場を立ち上げる原動力でもあるのです。

日本企業への示唆 ― 調達・支援・投資の三つの道

日本企業にとって、ベトナムのカーボンクレジット・ESG市場には、三つの関与の道があります。第一に、クレジットの調達です。自らの脱炭素目標の達成に向けて、ベトナム産の質の高いカーボンクレジット(森林・再エネ・農業由来)を調達する道です。二国間クレジット制度(JCM)のような枠組みを活用すれば、日本企業の技術・資金で実現した削減を、両国で活用することも可能です。第二に、ESG・脱炭素のソリューション提供です。排出量の算定・管理、再生可能エネルギーの調達支援、ESGコンサルティング、認証・データ管理といった分野で、ノウハウを持つ日本企業がサービスを提供できます。

第三に、クレジット創出プロジェクトへの投資・共同開発です。森林保全、再生可能エネルギー、農業分野の排出削減プロジェクトに資本と技術を持って参画し、クレジットを創出・取得する道です。これは、脱炭素への貢献と経済的なリターンを両立させる投資機会となり得ます。いずれの道においても、市場がまだ形成途上にあることを踏まえ、制度の動向を注視しつつ、信頼性の高いプロジェクト・パートナーを見極めることが重要です。早期に関与することで、立ち上がる市場における知見とネットワークを蓄積できる、先行者の機会がある分野といえます。

M&A・連携の論点 ― 信頼性の見極め

カーボンクレジット・ESG分野での投資・連携を検討する際の核心は、「信頼性」の見極めです。クレジット創出プロジェクトへの投資では、その削減・吸収効果が確実で、国際的な基準に基づいて認証され、二重計上や追加性の問題がないことを精査する必要があります。質の低いクレジットや、効果が疑わしいプロジェクトは、評判リスク(グリーンウォッシュとの批判)を招きかねません。デューデリジェンスでは、プロジェクトの環境効果の科学的な根拠、認証の状況、そして地域社会との関係を丁寧に確認することが求められます。

ESG関連のサービス事業への投資や、現地企業との連携においては、対象の専門性と実績、認証・基準への準拠、そして顧客基盤が評価の論点となります。市場が黎明期にある分、制度の変更や基準の進化が事業環境を大きく左右するため、規制・基準の動向を継続的に追う体制が不可欠です。長期の脱炭素・サステナビリティの流れは確かである一方、足元の市場は形成途上であり、過度な期待を排し、信頼性と実効性を重視した規律ある関与が、この新市場での成功の鍵となります。現地の制度・税務・会計の取り扱いについては、早期の専門的確認が欠かせません。

サプライチェーン脱炭素 ― 輸出企業への波及

ベトナムのカーボン・ESGを語るうえで見逃せないのが、グローバルなサプライチェーンの脱炭素要請が、現地の輸出企業に及ぼす影響です。欧米をはじめとする市場では、製品のライフサイクル全体での排出(スコープ3を含む)を問う動きが強まり、国境を越えた炭素の調整措置(炭素国境調整メカニズムなど)の導入も進みつつあります。これは、ベトナムから製品を輸出する企業に対し、製造過程の排出削減と、その証明を求める圧力となります。脱炭素は、もはや一部の先進企業の課題ではなく、輸出競争力を左右する実務的な要請となっているのです。

この波及は、ベトナムの製造業に、再生可能エネルギーの調達、排出量の算定・管理、そして削減努力の証明という具体的な対応を迫ります。対応できない企業は、グローバルなサプライチェーンから外れるリスクを負い、対応できる企業は、競争上の優位を得ます。この構図は、再生可能エネルギー調達支援、排出量管理、ESG認証、カーボンクレジット調達といったサービスへの確実な需要を生み出します。日本企業にとっては、こうしたサプライチェーン脱炭素のニーズに応えるソリューションを提供することが、事業機会となります。脱炭素の要請が「コスト」から「競争力」へと意味を変えるなか、それに応えるための支援を提供する側に回ることが、この市場での価値創出の道となります。

まとめ ― 脱炭素経営の時代を先取りする

ベトナムのカーボンクレジット・ESG市場は、排出量取引制度の構築とESG投資の浸透を背景に、これから本格的に立ち上がる新領域です。豊富な森林・再生可能エネルギー・農業を源泉とするクレジットのポテンシャル、そしてグローバルな脱炭素・サステナビリティ要請の高まりは、この市場に大きな成長余地を与えています。日本企業にとっては、クレジットの調達、ESG・脱炭素ソリューションの提供、そしてクレジット創出プロジェクトへの投資という三つの道があり、いずれも脱炭素への貢献と事業機会を両立させ得ます。市場が形成途上であるからこそ、信頼性を重視しつつ早期に関与することが、立ち上がる市場で有利な立ち位置を築く鍵となります。Solaraは、市場・制度の調査からパートナー発掘、プロジェクト評価、連携・投資の設計まで、一貫した支援を提供します。