ベトナムが製造拠点として、また消費市場として注目される理由の一つが、豊富で若い労働力です。約1億人の人口と相対的に低い人件費は、長らくベトナムの競争力の源泉でした。しかし近年、賃金は着実に上昇し、特に都市部や成長分野では人材獲得競争が激しさを増しています。「安い労働力」という前提だけで進出を計画すると、想定外の人件費上昇や定着の難しさに直面します。労働市場の実態は刻々と変化しており、過去のイメージのまま進出を判断すると、現地で見込み違いに気づくことになりかねません。本稿では、ベトナムの労働市場の動向と、進出企業が押さえるべき人材戦略の実務を整理し、変化する労働市場を味方につけるための視点を提示します。

賃金トレンド ― 上昇基調をどう読むか

ベトナムの賃金は、経済成長と生産性向上を背景に、上昇基調が続いています。政府は毎年、地域別に最低賃金を見直しており、これが賃金水準の下支えとなっています。最低賃金は地域区分(ハノイ・ホーチミンなどの都市部とそれ以外)によって異なり、都市部ほど高く設定されています。最低賃金の引き上げは、最低賃金近傍で働く層だけでなく、社会保険料の算定基礎にも影響するため、人件費全体に波及します。毎年の改定を見越して、人件費の上昇を中期の事業計画に織り込んでおくことが、健全な収益見通しの前提となります。

重要なのは、「依然として近隣諸国や先進国に比べれば人件費は低いが、上昇のペースは速い」という二面性を理解することです。短期的なコスト比較で進出を決めても、中期的には賃金上昇が利益を圧迫する可能性があります。進出計画では、現在の賃金水準だけでなく、数年先までの上昇を織り込んだ人件費の見通しを立てることが重要です。同時に、賃金上昇は購買力の向上を意味し、消費市場としての魅力が高まることの裏返しでもあります。コスト要因と市場機会の両面から労働市場を捉える視点が求められます。

平均賃金(指数)の推移イメージ(概念図)。上昇基調が継続。

▲ 平均賃金(指数)の推移イメージ(概念図)。上昇基調が継続。

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地域差と人材の偏在

ベトナムの労働市場は、地域による差が大きい点が特徴です。ハノイを中心とする北部、ホーチミンを中心とする南部、そしてダナンなどの中部では、賃金水準、人材の質、産業集積が異なります。北部はエレクトロニクスや製造業の集積が進み、南部は商業・サービスと多様な製造業が発達しています。中部は相対的に人件費が低く、新たな進出先として注目される一方、高度人材の層は都市部に比べて薄い傾向があります。

人材の質と賃金は地域によってトレードオフの関係にあります。都市部は人材の層が厚く、語学力やマネジメント経験を持つ人材が得やすい一方、賃金は高く、人材の流動性(転職率)も高い傾向があります。地方や工業団地は人件費を抑えられる反面、高度人材や管理職層の確保が課題となります。進出先の選定では、必要とする人材の種類(単純労働、技能工、専門職、管理職)と、その人材が確保しやすい地域を照らし合わせる視点が欠かせません。

人材獲得競争と定着の課題

成長分野では、人材獲得競争が激化しています。エンジニア、ITエンジニア、財務・会計の専門職、マネジメント経験者といった高度人材は需要が供給を上回り、引き抜きや賃金の高騰が起きています。進出企業にとって、優秀な人材を「採用すること」以上に「定着させること」が大きな課題となります。ベトナムは転職に対する心理的ハードルが相対的に低く、より良い条件があれば転職する傾向が見られるため、定着施策の巧拙が組織の安定を左右します。

定着のためには、競争力のある報酬だけでなく、キャリアの成長機会、明確な評価制度、良好な職場環境、そして経営層との信頼関係が重要です。日本企業は、雇用の安定性や丁寧な育成という強みを持つ一方、昇進や昇給のスピード感、意思決定の遅さ、現地人材への権限委譲の不足が定着の阻害要因となることがあります。現地人材を「労働力」ではなく「事業を担うパートナー」として処遇し、成長の道筋を示すことが、定着率を高める本質的な対応策です。

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社会保険・労働法制の実務

人件費を考える際は、給与そのものだけでなく、社会保険料などの法定福利費を含めた総コストで捉える必要があります。ベトナムでは、社会保険、健康保険、失業保険への加入が義務づけられており、雇用主と従業員がそれぞれ一定割合を負担します。雇用主負担分は給与に上乗せされる実質的なコストであり、賃金上昇とともに増加します。労働契約の形態(無期・有期)、試用期間、解雇のルール、残業や休日の規制なども、労働法に沿った適切な運用が求められます。

労働法制の遵守は、コンプライアンスの観点だけでなく、労使関係の安定の観点からも重要です。不適切な労務管理は、労働紛争やストライキ、当局の指導につながるリスクがあります。労働契約の整備、就業規則の作成、残業管理、適正な賃金支払い、社会保険の正しい納付といった基本を徹底することが、安定した事業運営の土台です。労務は専門性が高い領域であり、現地の労務専門家や社会保険の実務に精通した人材を活用することが、トラブルの予防につながります。

人材の質と教育水準の変化

ベトナムの労働市場を語るうえで見逃せないのが、人材の質の向上です。教育への高い関心、理数系を重視する風土、海外留学経験者の増加を背景に、エンジニアリングやITといった分野で能力の高い人材が育っています。とりわけソフトウェア開発やデジタル分野では、若く優秀な人材の層が厚みを増しており、これがベトナムを単なる製造拠点ではなく、知識集約型の事業の拠点としても魅力ある国にしています。「安い労働力」という旧来のイメージから、「質の高い人材を活用できる市場」へと、ベトナムの位置づけは変わりつつあります。

一方で、教育水準の高まりは、人材の期待値の上昇も意味します。優秀な人材ほど、報酬だけでなく、成長機会、裁量、企業のビジョンへの共感を重視する傾向があります。単純作業の担い手としてではなく、能力を発揮し成長できる場として職場を提供できるかが、優秀な人材の獲得と定着を左右します。日本企業は、丁寧な育成という強みを活かしつつ、若い人材に挑戦の機会と成長の道筋を示すことで、ベトナムの質の高い人材を惹きつけることができます。人材の質の変化に、企業側の人材活用の発想を合わせていくことが求められます。

労使関係とエンゲージメント

安定した事業運営には、良好な労使関係が不可欠です。ベトナムでは労働組合の存在や、集団的な労使交渉の枠組みがあり、賃金や労働条件をめぐる労使の対話が事業に影響します。労働条件への不満が蓄積すると、ストライキや離職という形で表面化することがあります。労使関係を良好に保つには、適正な賃金・労働条件の提供に加え、従業員の声に耳を傾け、不満を早期に把握し対応する仕組みが重要です。一方的な管理ではなく、対話を通じた信頼の構築が、組織の安定を支えます。

従業員のエンゲージメント(仕事への意欲と組織への愛着)を高めることは、定着率の向上と生産性の改善に直結します。明確な評価とフィードバック、公正な処遇、成長の機会、そして経営層との距離の近さは、エンゲージメントを高める要素です。日本企業が陥りやすいのは、本社の価値観をそのまま押し付け、現地人材の主体性を引き出せないことです。現地の文化や価値観を理解し、現地人材が「自分たちの会社」と感じられる組織を作ることが、エンゲージメントを高め、人材獲得競争を勝ち抜く土台となります。

人材戦略の設計 ― 採用・育成・定着の一体運用

労働市場の変化に対応するには、採用・育成・定着を一体で設計する人材戦略が必要です。採用では、必要な人材像を明確にし、適切な採用チャネル(人材紹介、大学との連携、リファラルなど)を選びます。育成では、技能・語学・マネジメントの研修や、日本本社との交流を通じて人材の能力を高めます。定着では、報酬・評価・キャリアの仕組みを整え、長く働きたいと思える環境を作ります。これらが噛み合って初めて、持続的な組織が育ちます。採用・育成・定着のいずれか一つでも欠けると、人材戦略は機能しません。

特に重要なのが、現地のリーダー人材の育成です。日本からの出向者に依存し続ける体制は、コストが高く、現地化が進まず、現地人材の成長機会も奪います。現地人材を管理職・経営層へと登用し、権限を委譲していくことが、長期的な事業の持続性と現地での競争力を支えます。賃金上昇の局面では、単なるコスト削減ではなく、人材一人あたりの生産性を高める投資へと発想を転換することが、ベトナムの労働市場を味方につける鍵となります。優秀な現地リーダーが育てば、事業の自律性が高まり、本社の負担も軽減されます。

生産性向上と自動化という選択肢

賃金上昇への対応策として、人材一人あたりの生産性を高める取り組みが重要性を増しています。単に人手を増やすのではなく、業務プロセスの改善、設備の高度化、自動化(オートメーション)の導入によって、より少ない人員で高い付加価値を生み出す方向への転換が求められます。日本企業が培ってきた現場改善(カイゼン)のノウハウや、品質管理の手法は、ベトナムの生産現場の生産性を高めるうえで大きな強みとなります。賃金上昇を、生産性向上への投資の契機と捉える発想が、競争力の維持につながります。

もっとも、自動化や設備投資には、相応の資本と、それを使いこなす人材が必要です。やみくもに機械化を進めるのではなく、自社の事業内容、賃金水準、人材の確保しやすさを踏まえて、どこに投資するかを見極める判断が求められます。労働集約的な工程を維持すべき領域と、自動化によって効率を高めるべき領域を切り分け、人材と設備を最適に組み合わせることが、賃金上昇局面での収益性を支えます。ベトナムの労働市場の変化は、企業に対して、量的な人員確保から質的な生産性向上への発想の転換を促しているのです。

日本企業への示唆とまとめ

ベトナムの労働市場は、「安い労働力」から「質の高い人材をいかに獲得し定着させるか」という競争の局面へと移行しつつあります。賃金の上昇基調、地域差、人材の偏在、定着の難しさといった現実を踏まえ、現在の賃金だけでなく中期の人件費を見通し、採用・育成・定着を一体で設計することが求められます。現地人材を事業のパートナーとして処遇し、成長の機会を示す企業が、人材獲得競争を勝ち抜きます。Solaraは、労働市場の動向分析から、人事制度の設計、労務コンプライアンスの整備まで、ベトナムでの人材戦略を支援します。賃金上昇は脅威であると同時に、購買力ある市場の成長を示す機会でもあります。